昭和40年01月18日 朝の御理解
四、五日前の新聞に大きく写真入りでいろいろ、やまなみハイウェイのちょっと手前の筋湯という所がありますね。あの近所でしょう。全山湯けむり。実にその壮観な写真が出ておりました。全山が湯けむりだっておる。ですから、その近所に住んでおる人たちはみんな、もちろんその高級ホテルの温泉のような設備をしておる所は、いつもが温泉に行っておるようなふうに、どの家でもその設備がしてある。ね。
ざあっとしておる所でも、ちょっとお風呂ぐらいにはしてある。その湯を全部が何事にも利用する。例えば、牛やら馬を飼うためにも、それからお野菜なんかを、もちろん洗いものなんかも、ぞうきんなんかも冷たい水で洗うことなんかいらん訳です。卵もゆでる。お酒のお燗もそれでつけてある。炬燵なんかも全部、その湯が引いてありますから、危険のない炬燵。一家団欒が出きると。あらゆる事にそれを応用して、余慶(よけい)を受けておるわけなのですね。
あれはどこでもという訳にはいかんです。ならこの耳納山でも設備さえすれば出きるかというと、そんな訳にはいかん。それはやはり写真に出ておりましたように、筋湯のどこか一部分の一部落がそういう恩恵を受けておるというだけ。ならそういう恩恵の受けられる部落に住んでおってもです、そういう設備をしなかったら同じこと。そりゃ時々大衆風呂にども行ってから、お風呂にども入るようなこと。お湯が出る、そこまで行って、ひとバケツなら、ひとバケツもろうてくるだけの事なんです。
私はねその事を椛目の場合にひとつ、皆さん考えてみられたらいいと思うですね。椛目というその山がですね、全山湯けむりだっておる。ね。ですからそこに住まわせて頂くという事は、そこに信心のけいこをさせて頂くという事。そこのお広前で。そして銘々の家にも、もう一切なことに、熱いお湯の恩恵を受けられることの出きるようにです、やはり設備だけは銘々がしなければならないという事。そうでしょうが。
私は、何とは無しにですね、現在の椛目のひとつの、比礼とでも申しましょうか、それこそ全山湯けむりの立った、壮観とまではいかんでもね、そういうものを現在の椛目のお広前に感じます。そういう意味でです、やはり、椛目にご神縁を頂いておる方たちは、その気になりゃあ、誰でもおかげが受けられるという、私は事を思うのです。ですから、どうでもやはり、ここにご縁を頂かせてもらい、ここで信心の稽古をさせてもらい、ここでおかげを受けたい。
お徳を受けたいと願われる方たちは、どうしても、だから、ここのご流儀というものを体得しなければならないという事。しかも、そのご流儀を自分の上にも頂かなければいけないという事。そういう事になりゃしませんでしょうかね。どこでもという訳にはいかんでしょうが。しかし皆さんがです、私が只今申しますように、全山湯けむりだっておるといったようなものを、ここで感じられないならば、そりゃ、そういう気にもならないでしょうけれどもね。
何とは無しに、そういうようなものを皆さんが感じられるならば、そういう事に、ひとつ、努力なさらなきゃいけないと思う。そこでそんなら、ここのご信心のご流儀を自分のものにするという事。ね。例えば、ここで、「ほう、そういう所がありますか。成程、ほんにこの頃、私もその写真を見ました。全山湯けむりが立っておる。実に壮観だ」という事がです、どんなに現地視察してまいりましてから、そういうような状態というものを見てきただけでは何にもなりません。
自分かたに帰って、自分かたば掘ったちゃ、そんな事は出きゃしませんものね。それを例えば、頭で覚えただけでは何にもならん。それが実際、自分の家にも引けれる。自分の身の上にもそれが引けれる、おかげを頂かなければ。そこでお互いがですね、それぞれの信心によって私いはおかげを頂かにゃいけん。私の親。私の家内、子供。これなんかは、もうですから、どういう事になりますか。家内であるために、子供であるために、親であるために、ね、というつながりがあるために。
やはりここで一緒に、私が入っておる極楽のような温泉に入っておるという事が言える訳ですねえ。そういうつながりがあるからなんですよ。そこで今度は、私と皆さんの場合でもです、私と皆さんというのが、なら、私のことを皆さんが「親先生、親先生」と呼んで下さる。それを口だけではいけんのですよ。いつも親先生としての交流がなされておらなければ。そうでしょうが。
「先生はああ言いよんなさるけれども、そんな訳にはいかん。あそこはだけは良かばってん、ここは悪か」と、例えば、いうような事では交流は始まらんですね。そこでそんなら、私と皆さんの交流がどういうふうにして始まるかと。例えば、皆さんがこうして朝参りをしてみえる。その朝参りの中にです、一生懸命の姿が現れておる。ね。おみいだし、けりだしのようなものじゃいかん。ね。その中に一生懸命のものが現れなければ駄目です。こうじょう始まりませんです。
お供えならお供え、その人なりに一生懸命の例えばお供えをなさる。一生懸命の朝参りなら朝参りが出来る。お供えとかお参りじゃなくてもならよい。一生懸命と認められる所までです、私は一生懸命、認められるところまでの一生懸命、なにかに。問題は、私と皆さんがほんとの意味で親子になることです。ね。成程、ここに毎日お参りしてこない人もあります。お供えに忙しく、一生懸命になっとるとも思われない人もあります。けれどもです、ほんとに親子としてのつながりを持っておるから、ね。
例えば、子供なら子供に対して、人が、例えば、中傷するような事がありましても、「もう、ありゃ、間違いなかがの。ありゃあ、ちゃんと私の気持ちが分かっとる」もう、親子としての交流がありよるから、そういうおかげを頂いておるのです。例えば、日参り、夜参りさせて頂きよってもです、ね、成程、お取次を頂いておかげを頂くという事実はあるけれども、それはどこまでも、一杯のお湯を頂いて帰っておるという程度のことじゃなかろうかと私は思うのです。
そこんところに私は、工夫をしなければいけないと思う。どういうような、例えば、設備をさせて頂いたら、どういう設備をしたら、どういうふうに使えるか。お風呂にもつかえる。炬燵にも使える。ね。お風呂はお風呂。炬燵は炬燵。勝手の方に引くのは勝手の方に引く。使い水は使い水。使い湯は使い湯と。というようなその設備ということ。それは皆さんがなさらなきゃ出来ません。
せっかく皆さん椛目にご縁を頂いておられるのでございますから、どこまでも、その湯が自分の家にいわば引いて、持って帰れるようなおかげを頂かせてもろうて、ね、そりゃもう、そこだけにしかないものですから。そこだけに、ひとつ、天地の恩恵というものが、椛目のお広前に、もし恵まれておるとするならです、その椛目に現れておるその恩恵を、皆さんもお受けにならなければ。しかも断片的な、ただ、そのもらい水的なものではなくてです、ね、それを頂かなきゃ。
それはいうなら神様と皆さんの交流という事は、そのまま私と皆さんの交流にあるという事。その交流ということは、それは私と家族の者の例をもって申しますようにです、私と皆さんが、皆さんが言うて下さる「親先生」というのがです、ね、まあ、例えば例を申しますなら、福岡の秋永先生なんか、そんな度々参ってこんでしょうが。月次祭ぐらいのことでしょう。なら「秋永先生はこうですばい、ああですばい」と言うて、例えば、もし誰かが中傷する人がありましてもです。
この頃からの事は、もう私にやかましゅう言うて、私が怒られるわけですね。怒られておってから、私が腹がたたんですもんね。例えば、中傷する人がありましても、「ええがの。ちゃんと分かるがの。ほうからかしといたちゃ、良かがの」とこう私が言えるです。もう、ちゃんといわば親子としての交流がいつも通わされておるという事。親子であるから、親に間違いがあると思うたら、子供が一生懸命になってから、やかましゅうに、親を怒るようなものじゃないでしょうか。
何かですそこに私は工夫をなさらなきゃいけん。そこで例えばここで頂く御理解というのはです、そういうおかげの頂けるヒントを、いつも神様が与えておられるとこう思うのです。ただお参りをしてからお願いをしてから、一杯のお湯を頂いて帰るというような程度のおかげからです、どうでもひとついつも通うておる、いつも交流しておる、ための私はなんとか工夫をなさらなきゃいけんのじゃないかと思うですね。
だから、例えば、その設備費を厭うてはなりません。設備をする労力を厭うてはなりません。一生懸命ということはです、まあいうなら大袈裟に申しますなら命がけという事。命がけということはそんなに難しいことかというと、一生懸命ということですから、さほど難しいことじゃないという事。ね、命がけ、命がけといかにも大袈裟に言いよるけれどもですたい、それはその人の命とこの人の命が、いつも通うておるという事。ね。「死んだんなら良かとに、また買おたい、ち。
ねえ。もうあんた、あそこに先生のおんなさる間。死なっしゃったら、また別のところに、ご比礼のたったところに行きゃあよかもんじゃけん。ぐずぐず言いごたるなら、金光様は椛目だけじゃなかもんじゃけん、どこんでんお参りしたっちゃ、さわるとじゃから、。しゃっち金光様のこといらん、天理教もありゃ、キリスト教もあるとじゃけん。もっと良か宗教があんなら、そこさん移っていこう」と。親子といったのに、そんなにたやすく縁が切れるもんでしょうか。そうじゃないですねえ。
問題は、私、ほんとにこの親子としてのつながりというものをです、感じ、頂けれるために、ひとつ一生懸命にならなきゃいけません。何かをもって一生懸命。ね。皆さん、先ず、椛目の全山湯けむりの壮観に触れられなければいけませんよ。昨日、夕べでした。東(ひがし)さんがお礼に出て参りましてから、この頃の元旦祭の日の、ここのあの日のお祭りの状況やら、外側の状況やらを写真にしてから持ってきておりました。
それを見ながら、私は一つのそういう全山壮観というようなものをです。湯けむりといったものを写真の中からでも感じました。ね。こんな片田舎の椛目、いわば、あの筋湯のような、ああいう山また山の向こうの方にあるような所に、みんなが筋湯、筋湯というて行くようにです、ね、ここの自動車の駐車場なんかが、一番端から一番向こうまで、ズーッと写してございましたが。
もうあの駐車場に一杯のその車が並んでおるところを写してございます。まあ、ちょっとした壮観ですね。そういうような、例えば、形だけではない、何とは無しに、湯けむりにも似たようなです、ものをなにかそういうようなものが、こう、湯けむりがこう上がっておるようなです、ものを椛目のお広前に皆さん感じられるならです、どうでも皆さんひとつ、その湯が出ておるなら。
その湯をさまざまな事に利用の出来れるような、私は交流をです、はかることに務めさせて頂いて、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、その事に私は練らせてもらう。ね。よその信心どん持ってきてから。自分がほんというたっとん頭の中で考えてから。そういうような事ではね、椛目での本当の交流が頂けんと私は思うのです。どうぞひとつ、そこんところをですね。
皆さんほんとにそういうふうに分かられて、皆さんも、例えば、私が受けておるようなおかげをです、受けて下さるなら、こんなに有難いことはない。神様も、ここに限りなくお恵み下さっておるです、そのお恵みを、千人よりも一万人の者がその事によって、その恩恵を受けることになることをです、神様も、私はお喜び下さる、というふうに思うんですね。おかげ頂かなければいけません。